文政4(1821)?~元治元(1864) 三河国挙母 挙母藩の弓術指南役であったが乱暴を働き35歳で脱藩、京都にて虚無僧となる。 文久3年、壬生浪士組に参加。40代と高齢であったが弓術の腕前を評価されてか副長助勤に就く。 池田屋事件では新田、奥沢らと裏口を固めていたが、脱出を図る浪士たちと斬り合いになり負傷。その一月半後に死去した。 「この御時世に弓など、何の役に立ちましょう…」 (文:じゅれいく)