弘化元(1844)~元治元(1864) 陸奥国会津 池田屋事件後、残党狩りに追われる新選組に派遣された会津藩士。浪士潜伏の報を受け向かった明保野亭にて、逃げようとした土佐藩士に槍で傷を負わせる。当初は正当な行為とされたが、やがて土佐と会津の外交問題に発展し責任を取り切腹。この若者の死は会津藩、新選組に深い悲しみをもたらした。 「碌にお役に立てないまま隊を去ること、お許しください。できることならもう少し……」 (文:じゅれいく)